STORY
― Day1
11:00
窓を埋める曇天。誰かの記憶。
札幌出身の彼女の提案で北海道を初めて訪れる。
誰かのルーツを辿るというのは“記憶の上書き”になってしまう。
その人のそれまでの物語に強制的に“自分”を栞のように挟み込み
場合によっては数行シナリオを書き換えてしまう行為だ。
思えば彼女は昔の話しをあまりしない。
自分のものではない記憶が何故か次々と脳裏を過ぎる。
いつ誰と過ごしたものかは曖昧だ。
まだできる前の空。継ぎ接ぎだらけの夜。世界の全ての色。
忘れられた青。そして誰かのあの日。
着陸まで30分のアナウンスが機内に響き、目が覚めた。
今にも雨が降り出しそうな空を彼女が心配そうに見つめていた。
13:30
背中合わせのボーダレス設計。
空港からホテル付近までバスが出ている。
バスは座席の高さが高いため、乗用車では見えにくいものが車窓から見える。
恋人は何を言うわけでもなくぼんやりと窓の外を眺めている。
景色がどんどん都会になってゆく。
停留所からホテルまでは5分ちょっとで着いた。
STAY & COFFEEの看板に迎えられ、ホテルへ。
ホテルの1階はカフェになっており、カフェカウンターとホテルフロントが
背中合わせになっており、スタッフはその空間を自由に行き来していた。この境界を廃した設計には「コンセプトで建物全体を“包む”」という想いがあるという。
チェックインは15時以降なのでフロントに荷物を預けまずはランチだ。
15:30
かつてこのホテルは。
店内はカフェとは思えないほど開放的な空間で中央のオープンキッチンでシェフがリズミカルにフライパンを振っている。
店内にはジャズのようなボサノヴァのような心地良い音楽が客の会話を邪魔しない絶妙な音量で流れている。
ニンニクの溶ける香りが脳に突き抜け、グツグツと煮立つ大鍋にパスタ麺がスッと吸い込まれてゆく。
僕たちが注文した“週替わりパスタ”はその名の通り週単位で変わる一期一会のメニュー。
セットドリンクをつければ一緒にこだわりの珈琲も味わえてしまう。
ふと店内を見渡すと明らかに旅行客ではない客が結構な割合でいる。
そうか。ここは地元に愛される店でもあるのか。
“週替わり”に込めた想いが分かった気がした。
15:45
繋がる珈琲。ホテルを超える。
ランチを終えてチェックイン。
彼女はルームキーのデザインが気に入ったらしく「かわいい!」と何枚も写真を撮っている。
ホテルフロントでは珈琲豆が渡された。
客室にはミルやサーバー、ドリッパーなど豆を挽くところから珈琲作りが体験できるドリップセットがあるらしい。そしてホテルマンはこう続けた。
「そのままお持ち帰りいただいてご自宅でお楽しみいただいたり、大切な方へのプレゼントにされていただいても構いません。私たちは珈琲と宿泊を一繋がり(人繋がり)のものと考えているのです。」
案内された客室は白とパステルグリーンを基調とした客室にナチュラルウッドのインテリアが溶け込むお部屋だった。2人で泊まるには広すぎるくらいのお部屋でキッチンや冷蔵庫・電子レンジもあり、このまま住んでしまいたいくらいと彼女が目を輝かせている。
16:15
因数分解される旅と大通公園
大通公園は札幌の中心部を東西1.5kmに渡って広がる札幌の代名詞ともいえる公園だ。それを一世紀以上にも渡って無言で見守り続ける札幌テレビ塔。「テレビ塔を撮るならおすすめのスポットを知っている!」と彼女が教えてくれたのは歩道橋。近くで見るとこんなに大きいんだ。
歩道橋から大通公園までは5分もかからず到着。
公園内には地元の人たちだろうか。老若男女が思い思いにくつろいでいる。ベンチに腰をかけると珍しく彼女が昔の話しを始めた。
制服を着ていた頃のこと。十年前の札幌のこと。家族のこと。
初めて聞く話しばかりだった。
17:00
凱旋北の学び舎。彼女になる前の彼女。
大通公園から北へ進むと彼女の母校“北海道大学”に辿り着く。
北大のキャンパスは一般に開放されており、今や札幌観光の定番になっている。キャンパスでは川・湖・樹木など雄大な自然が迎えてくれる。
札幌駅から徒歩圏内の都市のど真ん中にここまでのどかな空間があるというのはまさに北海道らしい。
豊かな自然の中に重厚な佇まいの歴史ある建物が点在している。中には重要文化財に指定されている建物もあるというから驚きだ。すれ違う人もグローバルで、僕たちと同じように明らかな観光者も少なくない。
懐かしそうに歩く彼女の横顔はなんだか別人のようだ。
18:00
玄天、燃ゆ。
札幌の都市部を回遊する路面電車「札幌市電」を経由して都市部から程近い「藻岩山」へ。藻岩山の山頂へはロープウェイで向かう。
いつかの色紙のように混じり気のない朱色にぼんやりと浮かぶまん丸の太陽。山肌は橙色に染め上げられ、コントラストの上がった景色が眼下で息を潜めている。
山頂に立つと、360度のパノラマに言葉を思わず失った。
夕方から夜へ空はみるみると表情を変え、街には灯がともり始めた。
日本新三大夜景にも選ばれている夜の札幌の街並みはナトリウムランプに照らされ、暖色の強い街並みからは温かみが感じられた。
夜が深まり、より景色が鮮明に輝く。天の川がこぼれたようなその光景はプラネタリウムよりずっとリアルで、あまりに大きくてその全体像を捉えることができなかった。
恋人の聖地ともされるこの場所には「幸せの鐘」と呼ばれる鐘がある。
カーンという僕たちの音が札幌中にこだました。
20:00
命の華
山頂から見えた観覧車を目指して僕たちは下山した。
なんと観覧車は複合ビルの屋上に設置されていた。
観覧車の中からは藻岩山とはまた違う景色が見えていた。
再開発される街・眠らない人・東京化される景色。
景色そのものが動き、離れては近づく。
そして元いた場所に戻んだ。
観覧車が聳える街 すすきの。
未知の感染症流行は街に多大な影響を及ぼしたと聞く。
命を賭けて誰かが守り抜いたこの街。
帰り道
背の高いビルに反射するそれは、歓楽街に咲く虹色の大華だった。
23:00
夜を着る路地裏ホテル
HOTEL POTMUMには本館と新館のテイストの異なる2棟のホテルがあるということで、今回は新館を予約した。
ホテルに戻るとホテルスタッフが新館まで案内してくれた。
新館は本館の裏にあり、一度屋外に出ることになるが、徒歩で1分もかからない距離だ。
夜を着て正装する新館はまさに路地裏ホテル。
世界から切り離された隠れ家のような印象を受けた。
客室は画像で見ていたものより随分と広く感じた。
明かりをつけると一気に部屋に閉じ込められていた空気が動き出した。照明がじわっと室内を照らし二人の影もそれに合わせて伸びた。
30㎡はあるであろう奥行きのある客室の中で、北欧風の家具とパステルグリーンの天井が見つめ合っている。
― Day2
09:00
2日目の始まりは。
朝は調理の音で目が覚めた。
彼女の小さな背中が視界の右へ左へ忙しなく動いている。
冷蔵庫を徐ろに開けたかと思えば中から取り出した何かを慣れた手付きで刻み始めた。
「おはよう。」
カーテンの隙間からは洗い立てのような太陽の光が溢れてシャワーを済ませたであろう彼女の黒い髪を優しく照らしていた。
この客室にはキッチンが付いている。
昨晩の帰り道僕たちはスーパーによって食材を買っていた。
調理器具はホテルが無償で貸してくれる。
「ほら。できたよ。」
まだ口紅を塗っていない肌色の唇で彼女がそっと言った。
10:00
本格珈琲を淹れられる
体験型ホテル
恋人の数%が入った朝食は何かに似ているわけではないが、懐かしい味がした。
母の作るものとは違う。ただひたすらに懐かしい味がするのだ。僕が世界で一番好きなタイプの朝ごはんだった。
先に食べ終わった僕は昨晩チェックインの時にフロントでもらった珈琲豆を片手にもう片方の手には「美味しい珈琲の淹れ方」をもって客室に備え付けのドリップセットで珈琲を淹れ始めた。
手動のコーヒーミルで珈琲豆がカリカリと心地よい音を立てて細かく挽かれてゆく。深みのある独特の芳香が弾ける。ポットを手に取ると何を言うわけでもなく彼女がずるい表情でこちらに寄ってきた。
中心に「の」の字を描くように…。
湯気の立つその飲み物を二人で恐る恐る口にする。
美味しい…!
少し苦いが、大地を連想する力強い味わいだ。
チェックアウトの時間が迫っていた。
11:00
降水確率0%の恋人たちよ。
チェックアウトを終えると日常に肩を叩かれた。
ホームパーティーの後片付けを一人でするような感情を打ち消すように僕たちはフロント横の物販棚に目を移した。
ディスプレイには珈琲だけでなく、焼き菓子をはじめとする軽食やステッカーなどお洒落な雑貨も丁寧に並べられていた。
お互い家族へのお土産を買ってホテルをあとにした。
空が抜けるような青さが目の奥に染みる。
きっと今日、雨は降らないだろう。